岩坂彰の部屋

岩坂彰

講談社選書メチエでモニカ・グリベリングの『アガサ・クリスティー』を翻訳するとき、岩坂さんはクリスティーの全作 品70作を発表年代順に読み直したという。当たり前だというかも知れないが、翻訳をたんに仕事と思っているのではとうていできない荒行だ。作家の脳細胞の 働きを探り、辿っていきながら翻訳していくのだろう。

今回開設した『岩坂彰の部屋』では、「なぜ翻訳をしなければならないのか」から説き起こし、認知言語学まで説き進め るという構想。そう、翻訳者がテキストに向かって呻吟するのは、辞書で読めるだけの意味ではない。原著者がポンとおいた1語1語がなぜこの言葉なのか、他 の発想はなかったのか、という疑問だ。難しい。岩坂さんはこの荒行に挑んでくれる。右欄のプロフィールを書いてくれた安藤進さんは、藤岡とは年来の友人、 Google表現検索で新しい翻訳法を開発されたが、これからは難物の特許英語に挑戦されるという。(藤岡記)


書架を前にして、読者の皆さんにこれからの連載がどのような舞台で展開するかを語っている岩坂さん。

第1回 なぜ翻訳をしなければならないのか?

これを読んでいらっしゃるあなたは、翻訳家を目指して勉強中の方でしょうか。それとも、締め切りに追われる翻訳家で、ちょっとお仕事逃避モードで軽 い読み物を求めて来られたのでしょうか。ひょっとして、担当の翻訳家の頑固さに頭を悩ませている編集者の方で、こういう連中を扱うにはどうしたらいいか と、ヒントを求めて見に来られたとか。それはないか。

ともかく、翻訳に関わっている方なら、何でこんなことをしなければならないんだろうと、煮詰まってしまうことはありませんか? 私はあります。なぜ 翻訳をしなければならないのか。仕事だから? もっと割のいい仕事はいくらでもあるじゃない。好きだから? だったら趣味でやっていればいいんじゃない ――誰も読む人がいなくても。

著者-翻訳者-読者

たとえ読む人がいなくても、翻訳そのものは楽しい。そういう気持ちは私にもあります。それがなければやっていられません。でも、仕事として翻訳を続 けていくには、もっと大きな、熱意のようなものが、ときに必要なんですね。私の場合、それは原著者と読者の存在です。私はノンフィクション分野を専門にし ていて、小説を翻訳しようという人の熱意は、よく分からないというか、ひたすら頭が下がる思いなのですけれど、少なくともノンフィクションに関しては、 「何か」を伝えようとしている原著者の気持ちというものが、すでにそこにあるわけです。それと、忘れてはいけないのですが、その情報を求めている読者の気 持ちがある。その間に立って両方の気持ちをつなげよう。それが私を動かしてるように思います。

私はここで、翻訳をするべき理由を押しつけようとしているわけではありません。ただ、翻訳という仕事が、当たり前のものとして最初からそこにあるわけではないということを、ちょっと指摘しておきたいのです。

私は昔、翻訳学校で小林章夫先生の教えを受けていました。あるとき(私がプロとして仕事を始めた後でしたが)先生が、「岩坂君、翻訳はお金にならな いだろう。翻訳よりも、何か書いたらどうかな?」とおっしゃったのです。翻訳の先生にそんなこと言われたら、愕然としていまいますよね。でも、いまから思 うと、先生のスタンスがわかるような気がします。翻訳も、ものを伝える行為の一つにすぎないということです。

何かを書けと言われても、大学で哲学など専攻していた私は、世の中に対して語るべきことなどないと思っていました(私の講座の教授は本を書かない人 でした。「書いたって、理解できるのはあいつとあいつしかいないんだから、手紙を書けば済むじゃないか」とか言ってました)。実際、大学を出て仕事を選ぶ ときに考えたのは、自分では語れないけれど、何かを語ろうとする人がいるのなら、その人の言葉を伝えることはできる、ということでした。伝えることそのも のに、やりがいを見いだしたのです。そうして私は編集者になりました。

そういう目で見ると、編集者と翻訳者は、著者と読者の間に立って言葉を伝えるという、同じ立場にあります。(なぜ私が編集者をやめて翻訳にシフトし たかというと、締め切りを破られる立場より、破る立場のほうが楽だから。編集者のみなさん、ごめんなさい……)何かを語ろうとする人がいて、それを聞こう とする人がいて、そこではじめて、編集や翻訳という仕事が成り立つ。翻訳は、ただ独立した作業としてそこにあるわけではない。それは誰かと誰かのコミュニ ケーションの手段なのです。そのことを忘れてはいけないと思います。

「読者を念頭に置くこと」。翻訳上の心構えとして、こんな言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。自分を著者と読者の間で意識するという姿勢 は、良い文章を紡ぐための実践的なスキルであるだけでなく、なぜ翻訳をするかという原理的な立脚点に関わるポイントでもあるのです。訳文の選択で迷ったと きに、最終的な判断の拠り所とすべきなのは、それがどういうつもりで書かれたか、誰がどう読むのか、という想定です。これについては次回、少し詳しく考察 するつもりです。

翻訳以外の手段だってある

「何かを伝える」という立場を突き詰めてみると、「翻訳」にこだわらなくてもいいんじゃないかと思えるケースさえ出てきます。

心理学ハウツーのようなものを訳していると、そのシチュエーションは日本ではありえないだろう、ということがときどきあります。パーティで親戚が集 まったとき? それって法事のことか? 地域のマリッジ・カウンセラーに相談してみましょう? そんな人、どこにいるの? アメリカと日本ではカウンセリ ングの文化が全然違います。少なくとも、読者の悩みの解決に役立てるという点では、そのまま訳したって無意味です。

では、そういうところは省いてしまうか。それとも日本的なシチュエーションに置き換えるか。でもそれは、翻訳の範囲を逸脱しているのでは? あるい は、文脈の置き換えという意味で翻訳の範囲内と言えるのかな? いろいろ悩むところではありますが、しかし、一つの治療法を日本に紹介しようという意図に 照らして見れば、それが翻訳であるかないかなどという定義の問題は、どうでもいい、と言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、少なくとも本質的なことで はありません。

『うつと不安の認知療法練習帳』という、アメリカのうつや不安の患者さん向けに書かれた本を、日本の患者さん向けに訳したことがあります。訳し始め る前の打ち合わせのときに、私は監修の精神科医の先生に、こんなことを申し上げました。「このままでは日本の患者さんの状況に合わないところがたくさんあ ります。私はこれを、日本の精神療法の研究者向けに訳しますから、先生方でそれを元に日本で実践をして、その上で日本独自の『練習帳』をお書きになったら いかがでしょうか」

結局この本は、基本的にストレートな翻訳の形で、日本の患者さん向けの本として出版されましたが、私の意を汲んだ(と思います)監修の先生と編集者 の方が、日本向けバージョンを別の本として作ってくださいました。そのせいで、私の翻訳書の売り上げは落ちたかもしれませんが、私はこれで良かったと思っ ています。

ウェブ上のニュースの翻訳にも、かなり長く携わっていたことがあります。ニュースの場合も、そのまま翻訳するよりも、それもソースの一つとして日本 側で取材して、オリジナルの記事を書いた方がよいのに、と思うことがよくあります。ただ、著作権契約の問題ですとか、いろいろ制約があって、仕方がなくそ のまま翻訳することも多いのですが。(翻訳した方が、結局コストが安くつくということも大きいです。翻訳コストのほうが安いというところが実は大問題なん ですが、それはまた別の話。)

翻訳は意訳でいいとか、超訳が素晴らしいとか言うつもりはありません。目的に照らして翻訳以外に適切な手段があるのなら、翻訳にこだわる必要はない ということです。そこまで突き放したうえで、それでもやはり翻訳が必要だと思えるものが、「翻訳をしなければならない」テキストなのです。

さて、私たちは、いつでも本当に「しなければならない」翻訳をしているでしょうか。現実には私も、「仕事だから」と言い訳しつつ、締め切りに追われていることが多いです。でも、ときには自分の足元を見つめ直してみたいものですね。

今月から、原田勝さんと並んでコラムを担当することになりました。よろしくお願いします。掲載は月1回の予定です。

今回のテーマもそうですが、翻訳の中身よりも、翻訳を取り巻く状況をさまざまな視点から考えてみようと思っています。ご意見、ご感想をお寄せいただけると幸いです。

辞典類の棚(1)
精神/認知系(2)
翻訳資料の雑多な棚(3)

辞典類の棚(1)と精神/認知系(2)、そして、翻訳資料の雑多な棚(3)です。この統一性のなさが私の本領かもしれません。小説類は別室です……実を言うと、時代小説マニアなのです。

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(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年2月日18号)